答えを見ることは悪なのか。
早めに塾に来た小学生たちが、よく学校の宿題をやっています。
算数や国語、自習学習など各自で頑張っていて、お互いに教え合っています。
その中でときどきこんな会話があります。
「わからへんねん。答え教えて~!」
「それあかんで!自分で考えなあかんねんで!」
なんてかわいい会話なんだろうといつも思います。
解き方や考え方ではなく「答え」を直で聞きに行く姿、表情、天真爛漫さ。
「自分で考えよ!」と学校の先生から言われていることを忠実に守ってたしなめる姿。
子どもって素直で、言われたことをスポンジのように吸収して、一生懸命実践します。
だからこそ、子どもたちに携わる我々の言葉がけや指導には大きな責任があると気が引き締まります!
ただ、答えを見ることは悪なのでしょうか。
私はそうは思わないのです。
考えたけどわからない。
考え方や解き方を教えてもらったけど、まだわからない。
教科書に同じような問題があり、それと同じように解いてみたけど、その答えに確信がない。
その場合は答えが必要だと思うのです。
そして、問題を解いているときってこのようなことが頻繁に起こります。
先日、算数の宿題をしていた5年生で、こんなことがありました。
「50kmの道のりを2時間で走ったバイク」「30kmの道のりを1時間で走った自転車」
このバイクと自転車ではどちらのほうが時速が速いか、という問題でした。
バイクは時速25km、自転車は時速30kmなので、自転車のほうが速いです。
この問題を解いた生徒が
「これ、合ってるんかな?自転車のほうがバイクより速いってことある?計算間違ったかな~。」
と困っていました。
こういうときも答えを見たくなると思うのです。
見ずにもやもやしたままいるよりも、答えで確認してスッキリしたいと思うのです。
でも、答えがないので自分ではどうしようもありません。
私が「それで合っているよ。安全運転でゆっくりバイクが走っているだけ。」と言うと
「あぁ、そうなんか。合っててよかった~。」とほっとしていました。
答えをその場で知るということは大切です。
私は中学生には毎週プリントを作成して、宿題として渡しています。
開業時は答えは渡しておらず、翌週に渡して答え合わせをするという形式をとっていました。
答えに頼らず、自分の力でやってほしかったからです。
簡単に言えば、答えを丸写ししてほしくなかったからです。
しかし、今では問題といっしょに答えも渡しています。
そう改めたのは、自分が英検1級に向けて勉強を始めたときです。
自分が勉強をしていて、わからなかったり答えが不安だった時にすぐに答えを確認したくなりました。
もちろんネットで調べたりして答えに近づくことはできますが、合っているかどうかは答えを見ないとわかりません。
合っていれば「よし!」となるし、間違っていれば「えぇ、なんで?」とまた考えなおせます。
何より白黒をはっきりつけて、もやもやしたくありませんでした。
生徒たちも同じように思っているのではないかと思い、答えを配布するようになりました。
もし彼らのほとんどが答えを丸写しする生徒だとしても、その中に1人でも答えを上手に活用したいと思っている生徒がいるなら、
その生徒を優先すべきではないかと思いました。
私は小中学生に英語を教えているので、小中学生の内容は完璧にできて当然です。
自分が作った問題も、ワークの問題も、確実にわかります。
答えが無いことに不安も何も一切感じません。
でも、英検1級の勉強を初めて、久しぶりに「わからん!」を体験しました。
答えの必要性を感じました。
初めての単元を勉強している中学生は、自分が作った宿題で同じように感じているはずです。
そんな彼らに答えを提供しないことは、勉強の妨げになっているはずです。
それに、わからなければ答えを見るというのは効率的だと思います。
英語で言えば、「understand」の意味を書く問題があったとして、その答えがわからないときにネットで調べると「わかる、理解する」と出てきます。
教科書を見ても同じで、単語帳を見ても同じです。
もちろん答えを見ても同じです。
「ネットで調べる」「教科書で調べる」「単語帳で調べる」「答えで調べる」
これって何か差があるのでしょうか。
絶対にないです。
むしろ答えを見る方が絶対はやいです。
わからない問題があったときも、少し考えて全く解き方が出てこないときは、教科書で類似問題を探すより、答えを見て解き方を知る方が絶対はやいです。
要は丸写しするだけなのか、その答えをじっくり見て解きなおすのか、そこに差が出てくるだけです。
積極的に答えを活用しましょう。
問題集を買うときは、問題だけでなく答えの冊子も見てみましょう。
解説が丁寧についているかどうかはすごく大事です。
答えを見ることは絶対に悪ではありません。